鈍足ラビットのPROFILE
本名 植松 靖博 2001年東京荒川市民マラソン
生年月日 昭和34年10月9日
血液型 O型
出身地 静岡県清水市(現在の静岡市清水区)
ちびまる子ちゃんの近所
趣味 走ること、食べる(飲む)こと、寝ること
ベスト
記録
2時間40分36秒(2004年 東京荒川市民マラソン)
目標 初サブスリー達成(1996年4月霞ヶ浦マラソン)後は、2時間40分を切って、別府大分毎日マラソン出場を目指して現在も走り続けている。
※別大マラソンも今では2時間50分以内で出場できるが、当初の目標を貫くため、敢えて出場していない。

ハンドルネーム(鈍足ラビット)の由来
2002年の大田原マラソン。2週間前の渡良瀬遊水地マラソンでも年代別優勝(総合5位)と絶好調の時期で、今度こそ目標達成(2時間40分切り)出来ると確信して臨んだレースだった。前半は集団の後方で自重する予定だったが、5キロの通過タイム(下りなのに19分越え)に焦り、集団の前に出て「ラビット」をしてしまった。結果、35キロでの撃沈となってしまった。(2時間43分台) 帰りの電車で宇都宮線の「快速ラビット号」を見て、遅いくせしてラビットをしてしまった自分に対する反省をこめて、そしていつかは「快速ラビット」になる日を夢見て、その頃ちょうど出来たばかりだった「城北クラブの掲示板」でのHNを「鈍足ラビット」とした。


私の走歴書

長距離走に目覚めた小学生時代
 小学1年生の時、2つ上の兄が賞状(実は珠算検定の合格証書だった)をもらい、両親に褒められていた。それを見て、うらやましく思い「自分も賞状が欲しい!」と思っていた矢先、校内マラソン大会があった。結果は16位(1学年120人くらい?で、10位までなら賞状がもらえた)。「悔し〜い!」
短距離は得意ではなかったが、長距離になると「他の子が遅くなる」という感じがして、自分の中で賞状に一番近いものは「マラソン」だと思った。

 2年生以降は「賞状狙い」でスタートから飛ばした。その結果、オーバーペースで後半抜かれまくる。これを6年生まで繰り返してしまい「賞状」は夢と散った。
 でも、みんなが嫌う「マラソン大会」が、自分にとっては「楽しみなイベント」に感じていて、やはりその頃から「かけっこ好き」だったのだろう・・・
野球部でしごかれ持久力アップ?の中学生時代
中学の時は陸上には目もくれず、以前から憧れていた(将来の夢はプロ野球選手だった)野球部に入部。でも、運動神経が鈍く、ボール恐怖症?の自分には全く向かないスポーツだった。3年間常にベンチを暖めていた。
 野球の練習が終わると、上級生からの「しごき」が始まる。その中で名物だった「ダービー」なるもの?これは先輩が「よし」というまで(距離は決まっていない。あくまでも先輩の気分しだい)長い距離を走らされて、その時点で1位の人は終わっていいが、それ以外の人はそのまま走らされる。それが延々と続くものだった。この「しごき」で持久力がアップしたのかもしれない。

 苦い思い出ばかりの野球部だったが、高校では「甲子園」という夢もあったので、中学3年生の夏、「自分が進学する学校が甲子園に行けたら高校でも野球部へ。行けなかったら野球はきっぱりとやめる。」という賭けに出た。結局は県大会の決勝で惜しくも敗北。これで夢だった野球とはあっさりと「サヨナラ」をする。

 ちなみに中学生の時は「校内マラソン大会」はなかった。
そのかわりに「校内なわとび大会」があって、皮肉にも中学2年生の時に「両足飛びの部」で全校優勝を遂げる。(たまたま縄に引っかからなかっただけではあるが・・・)
マラソンで賞状を貰う前に、なわとびで賞状をGETした。
学習能力のなかった高校時代
高校では何故か柔道部に入部。陸上部にするか?コーラス部(当時趣味だったギター弾き語り系)にするか?迷っていたが、何故、柔道部を選んだのかは、今となっては全く思い出せない。稽古を見学していて、「投げている」先輩を見ていて格好良く見えたのかもしれない。(現実的には「投げられる」方にまわってしまったのだが・・・)
 高校1年の時、全校マラソン大会があった。海岸を走るコースで前半は砂浜を走って灯台のところを折り返して、後半はアスファルト+砂浜といった約10キロくらいのコースだったと記憶。
 砂浜は約100mくらいの幅があったが、先輩からは、「波打際」は砂が固まっているので走りやすいと聞いていたので、波打際からスタートした。ところが、堤防を走る人の方が順調に走っている。堤防は傾いていて走りにくい反面、コンクリートの上を軽く砂がのっている程度なのでキックしやすいようだった。仕方ないので、波打際から堤防までの約100mの砂浜を横断。そこから追い上げたが、結局23位。(全校生徒男子約500人のうち、10位までが入賞でトロフィーをもらっていた。)悔しい〜!最初から堤防を走っていれば・・・
部活の先輩からは「お前、それでも柔道部か!(柔道部のくせして速すぎる)」と怒られた・・・

 高校2年からは、「堤防」は許可されなくなり、全員が普通に砂浜を走るようになった。しかし、またやってしまった。スタートから飛ばしてしまい先頭争い、その後はバテバテになってしまって、復路は砂浜の上に倒れこんでしまう。3年生の時も同じようなものだった。小学校の時から全く学習能力が無いやつだった。
仕事に明け暮れた20代
 社会人になって忙しくて全く運動できない。というか、運動する気力も沸かない。
 24歳の頃、プライベートで相当落ち込むことがあった。「何かをして乗り超えなければ・・・」何故か、アパートの近くの学校のまわりを走っていた。運動を全くしていないわりに以外と走れた。タイムを測って走ったが、正確な距離も判らず、たとえ速く走れるようになったとしても「それが一体何なのだ?何のために走るんだ・・・」と思ってしまうと、答えが出ない。結局、何の目的もないランニングは数回やっただけ。仕事の忙しさに負けて、自然に走らなくなっていき、最初のにわか市民ランナー時代は一瞬で終わる。

 ただ、その頃、不思議な夢を何度もみた。
 マラソン大会があって、何故か先頭で走っている。コース覚えていないので不安を抱えながら走っていると、全然別の通りを集団が走っている。「あ〜!コス間違えてしまったんだ〜・・・
 だいたいそこで目が覚める。

 何故、こんな「妙な夢」を見るのだろうか?自分の中で知らぬうちに、学生時代に賞状が貰えなかった「マラソン大会」への未練?が蘇ろうとしていたのだろうか?
ランナー(鈍足ラビット)誕生へ
 30代になっても相変わらず忙しい仕事。煙草は1日30本以上。たまに仕事が早く終わっても、飲み屋を2軒、3軒とハシゴして、タクシー帰り、始発帰りは日常茶飯事。不健康極まりない生活が続いていた。

 ある日友人と飲んでいて、たまたまマラソンの話になった。「学生の頃は速かったんだ」と言うと、その友人に「その体で走れるんですか?」と言われてしまう。(友人はやせ型、自分は当時67kgくらい)「よし、今度の青梅マラソンに出て勝負をつけよう!」(当時の私は、市民マラソンといえば「青梅マラソン」くらいしか、存在を知らなかった)

 結局、抽選の結果、私は外れて、その友人は当選して青梅マラソンを見事に?制限時間ギリギリのタイムで完走を果たす。でも私のランナーデビューはまたしてもお預けとなってしまった。

 34歳の頃、青梅を走ったその友人が、別の友人から誘われて「まほろば国際マラソンに出ませんか?」と、私にその話を持ってきた。その場で断ったが、「聞いたことがないマラソンだけど、一体その情報をどこで仕入れてくるのだろう?」と不思議に思い、本屋さんに行くと、「ランナーズ」という雑誌が目に付いた。立ち読みで後ろの方を見ると、マラソン大会の情報が満載。「満載」といっても、シーズンオフを迎える4月だったので満載というほどではないはずだったが、当時の自分には「満載」に見えた。

 ランナーズを購入していっきに読んだ。「自分ははたしてフルマラソンをどのくらいのタイムで走れるのだろう?」流行ものには全く興味を示さない自分であったが、「フルマラソン」については「走りたい!」という衝動にかられてしまって、その日のうちにジョギングを開始した。
 まだ「人前で走るのは恥ずかしい」と感じながらも、ゴールデンウィーク前の杉並区蚕糸の森公園にてランナー鈍足ラビットが誕生した。

鈍足ラビットのその後については

を、ちょっと覗いて見て下さいね。